タダシイ・センソウ

テレビの前でしたり顔の弁説者が、ある国の罪を断じた。
すぐさま色鮮やかな炎と煙があの国に立ちのぼった。
一つ一つの煙の下には、破壊と涙と絶望と、そしておそらく戻る事のない死が隠れている。
見えないけれど、決して理論や言葉では正当化できない絶対的な悲劇が居座っている。

弁説者は「正義」を主張する。
「正義」の為の、不可欠で不回避な行動だと。
しかし忘れてはいけない。「正義」とは何かを。
正義とは、その基盤となる思想によってめまぐるしくその色を変えるカメレオンだ。
ある人の正義が、ある人にとっては許しがたい悪でもありえる。
「絶対的な悪」はあるかもしれないが、「絶対的な正義」などない。
「正義」は、彼らの正義でしかないのだ。
かつて日本は帝国の為に、ドイツはナチスの信条の為に、自らの信じる正義の為に闘った。
「正義」とは時の流れに擦り切れる、あまりにも希薄な宿り木だ。
そしてその「正義」が仮に正しくても、「目的」は決して「手段」を正当化はしない。

弁説者とその仲間は気付かねばならない。
彼らが彼らの正義のためにあの国を叩き潰すのであれば、誰かが別の正義の為に
彼らを攻撃する事も否定することが出来ない事を。
その2つには質的な差は毛ほどもない。
ただ何を信じるか、それだけの差だ。
そして、もしも差があるとすれば前者は「聖戦」、後者は「テロ」と呼ばれるであろう事、
それくらいである。
一人一人の信じるものに微差がある以上、現在地球上には約65億通りの正義が存在する。
彼ら以外の正義を否定する明確な根拠を彼らは持てない。

強者が弱者を叩くのが「制裁」であり、弱者が強者に噛みつくのが「テロ」ならば、
どちらも自らの正義を目的とし、悲劇を内包した戦いである事に差はない。
二つの大きなタワーがジェット機に噛み砕かれた時、彼らはそれに気付くことが
出来たはずだった。
ジェット機を乗っ取った青年と、あの国にミサイルを打ち込む兵士、
その両者に、自ら信じる正義のために命を賭ける決意は平等に存在している。
兵士はキリストに、青年はアラーに祈った。ただそれだけの違いだ。
テロは間違いなく憎むべき手段だ。
だが、テロを憎むなら、なぜ同質の行いを再び繰り返すのだろうか。

弁説者とその仲間は、彼らの信ずる正義という法律にのっとって、
あの国を訴え、裁き、死刑を断じ、自ら執行しつつある。
幸運にも多くの国が陪審員として裁きに参加した。
そこには彼ら以外の「正義」が存在したが、機敏な彼らは審議前に法廷を閉じたのだ。
異なる見解を理由無く拒むなら、自らの主義のみにおいて他者を排除するための力を
行使するならば、それは彼らの最も非難する「独裁者」と変わりはない。
世界中に巻き起こる激しい反戦運動を安っぽいセンチメンタリズムとでも思うのなら、
弁説者とその仲間は、おごそかなるつんぼであり、祝福されためくらだ。
戦いは必ず破壊を伴う。死と悲劇がそこには舞い降りる。
奪われる未来を、希望を、生命を、どんな言葉も正当化できない。
そのような力の、どんな言い訳も、第三者からの戯言に過ぎない。
報道される死者の数は単なる統計に過ぎないが、その一つ一つには決して忘れられない
悲しみがへばりついているのだ。
そして戦争という巨大な怪物の中では、その「死」すら小さな一つのパーツに過ぎない。

最先端の兵器が宇宙時代の精密さで、石器時代から変わらぬ悲劇を繰り返す。
人間は進化したのか、とどまっているのか。
太古の昔と変わらぬ涙の中、同じ赤い血を流して、「死」は誰かの肩をたたく。
正義のためであるならば、犠牲者は自らの死を納得するだろうか。
世界中から非難されながら、兵士は自らの職務の為に殺し、また殺されなければ
ならないのだろうか。
この戦争があの国の人々を解放したとは思えない。
独裁者の手のひらから、同じくらい不透明な運命の上に乗せかえられただけだ。
他者の正義のために死を強要されるならば、それは独裁者の下と変わりがない。
弁説者の断じた独裁者の罪は、おそらく正しい。
しかしそこに巻き込まれる多くの人々には決して罪はない。
独裁者の圧政の下、ただひたすら生きて来ただけだ。
人々は一つの犠牲者から、またもう一つの犠牲者へと素早く書き替えられた。

弁説者とその仲間は気付くべきだ。
彼らの行為が本当の自由と幸福を人々に与えうるのかを。
自らに銃を向けたのと同じ手を、深い信頼を持って握りしめることができるかを。
悲劇を条件にもたらされた自由を、破壊を前提にもたらされた再建を、
子犬のように素直に喜べるかどうかを。

全てのこの戦争を推し進める人に、全てのこの戦争に賛同する人に、
全てのこの戦争に反対しない人に尋ねたい。
もしあの爆弾が貴方の上に降り注いでも、貴方の信条は健在だろうか。
もしあの銃口が貴方の方へ向けられても、貴方の主張は変わらないだろうか。
揺らぐならば、ためらうならば、それは第三者からの戯言だ。
鉄柵の外の安全なシートからとばされた野次に過ぎない。
遠い国、異なる民族。自分とは関わりのない世界。
ならばなぜ、彼らの未来を、我々には操る権利がありえようか。

遠く離れた海の向こうで、私達はテレビの映し出す映像を、映画の一コマのように眺める。
誰かの脚本通りに、また画面の向こうで炎が上がる。
土と瓦礫が弾け跳び、おそらくまた誰かが死んだ。
デマと真実の狭間に、死者の勘定だけが走りまわる。
実感の伴わない現実の悲劇が、画面の向こうにある。
手の届かない悲劇を見つめ、顔をしかめて嘆く事、名も知らぬ多くの人のために祈る事。
それしか私には出来ない。
それならばせめて、我々が無力であった事、この戦いを止められなかった事、
それだけでも胸に刻もうか。
我々にできるのは忘れない事だけかもしれない。




『砂漠の空へ』

『或る国の主張』

『全ての戦争支持者に』